難波寺は開創当時は華厳宗であった。
しかし南都六宗は全国には広まらず奈良中心の宗派であった。
大阪にあった難波寺はいつの頃からは不明だが、三井寺の末寺になっていた。
天台宗には、2つの派があり、山門派は比叡山延暦寺、寺門派は三井寺が本山となる。
三井寺は天台門宗として発展した。1300年前と伝わっている。
難波寺は1250年前西暦752年創建だから、ほとんど天台門宗として存在してたようだ。
寺にある大黒さんは、八面六臂の天台宗寺院によくある形をしていて、昔から信仰を集めてたようだ。御札に押印する大黒像や由緒の判子が現存している。
少し大きめな像なので珍しいらしい。御厨子に入っておられる。
寺の脇仏の不動像、毘沙門像は、天台宗の祀り方らしい。
妙心寺塔頭・後花園院の卓堂和尚が再建したのは江戸時代。臨済宗妙心寺派になった。当時、随分、荒廃してたらしい。
歌舞伎の茜染野中隠井(あかねそめのなかのかくれい)が生まれたのは妙心寺派になってからのようだ。演目の野中は、野中の観音さんと当時呼ばれていた由縁。
歌舞伎で件の演目が上演されるときは、役者さんがお参りに来られる。
私が知ってるのは、先代の中村仁左衛門さんが、お供の方たちとお見えになり、丁稚長吉が投げ込まれたという井戸枠などを見ておられた。新聞記事になり、切り抜きが残っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿