前回は六道についてでした。
私がよく話すのは、立ち上がるといフレイズです。
何も無いところから、ふっと浮かび上がるとい感じ。
心は本来は無です。
無心の状態にある。
そこに眼耳鼻舌身意から何らかの感覚を感受し心が立ち上がります。
見たり聞いたり臭ったり味わったり感触をえたり思ったり。
それらのものが何もなかったら心は無です。
眠ってる時がそうですね。
眠るのは脳を休めるための行為なので無心になってることが多い時間です。
夢見たりはしますけどね。
目が覚めてるときに無心は感じにくい。
意識があるのは、もう無心じゃないもんね。
でも、不思議なのは、寝て自我を一旦捨ててるはずなのに、目が覚めると自分がいます。
不思議ですね。
昨夜の自分と、今朝の自分は、果たして同一なのか?
ここから、心の奥に話を移します。
潜在意識といえば分かりやすいかな。
無意識。
仏教では意識の奥に、第七末那識、第八阿頼耶識を説きます。
第八阿頼耶識の中には地獄から仏までの全ての心の動きの元となるものが存在します。
心に立ち上がる全てはここから生まれている、立ち上がっている。
鬼のような心も、仏の心も。
心理学ではユング派が説く、集合的無意識。
心が生まれた原始の時代からの記憶が全て集合し、人の心の奥に存在している。
この説も、仏教の影響を受けたと言われています。
坐禅で三昧に入ると、スパーンと何も無い心になっている時が有ります。
自分が全てで、全てが自分。
お釈迦様が明けの明星をみた時の心。
何も立ち上がってない心がある。
無いけど有る。
西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一。
違う自己が立ち上がっているのに同一だという矛盾。
まあ、目も耳も、自分が見たいもの聞きたいものを選別して受容してるしね。
見えてもない部分を足してみてるでしょ?
聞きたい音だけ聴いてるでしょ?
目はかすみ、耳は遠なる、歯は抜ける。
年令を重ね、目も衰え霞んできます。
でも、同じように見えてます。
脳が調整してるんですね。
耳も、音全部クリアに聴いてたら頭おかしくなります。
聞きたい音だけを選別して聴いてます。
これも脳の働き。
今日は、この辺で。