桜は満開を迎え、咲き誇っています。
50数年前、音大を卒業し、京都の花園前塾に入り花園大学に編入した時は、もう音楽はできないなと思っていました。花大時代に、音楽同好会に入り、ギターを弾いてました。趣味程度にね。卒業後、東福寺専門道場に掛搭。僧堂を下山し難波寺副住職に。この時点で、音楽とは全く関係のない生活に入りました。
数年後、妙心寺大法院に東福僧堂でご一緒だった方が入寺され、宗務本所に務められました。その方から、連絡があり「がくっさん(僧堂ではそう呼ばれていました)、花園会の行事、手伝ってくれ。」と指示を受け、本山に花園会運営委員としてお手伝いを始めました。
年間、4回定員200人の二泊三日の研修会の指導を7名くらいの和尚で担当しました。私は、仏教聖歌の指導を担当しました。と入っても、坐禅指導や食事作法の指導もね。少年少女の部、青年の部、女性の部、運営部(各寺の総代さん方)。各200人の定員で、全国の教区から来られます。北海道から沖縄まで、沢山の方が受講されました。
年4会、研修会準備会が二泊三日で行われました。(結局年8回本山へ)。初めての準備会は、九州の年配の鬼のような和尚がいて、随分可愛がって頂きました。研修会のテーマ、レジュメ、分科会のテーマ等。私は9年花園会運営委員を努めました。私以外は、どんどんメンバーが変わりました。全国の和尚たちと交流できました。有り難いことでした。本山の山内の和尚さんや、宗務本所の方々ともお付き合いができました。花園会を引退する時に、教学部長に依頼され、寺庭婦人(寺の奥さん)、学徒(寺の息子娘たち)の研修会の手伝いをしました。3年間勤めました。まあ、父には迷惑を掛けました。私の留守中、一人で難波寺の事をやってくれました。
13年間の思い出は、岐阜区各務原市から来てた少年少女の部のリクレーションタイムでした。
入場のとき、ポータトーンでディスコのリズムを鳴らしキーボードを弾き「僕らはみんな生きているを」皆で合唱。なぜか、私もノリノリで、子供たちも目を輝かせノッてくれました。リクレーションゲームをしても、大騒ぎ!あっという間に時間は過ぎていき、最後、大きな拍手をもらい素晴らしいエンディング!その後は、何かというと、私の周りに子供たちが集まり、研修後に何通もファンレターを頂きました。
当時は、音大卒業の和尚は、武蔵野音大を出た楽音寺さんたけでした。きっと今は、音楽指導をなさる和尚は数多くいらっしゃるでしょう。(シランケド)
宗務本所の職員は皆、孫みたいな人ばかり。
今は昔の、お話でした。