これは大正時代の新聞記事です。
近鉄本社・上六駅建設のため、移転となった難波寺の記事です。
取壊された大阪第一の
古刹難波寺
聖武帝の勅額があり
梅の由兵衛の墓もある
市電高津線が延長されるにつき大軌停留所移転のため取り払われることになった、大地蔵のある源正寺のことは、過日の紙上に記しておいたが、源正寺以上に取り払われるのを、惜しがられている古刹が猶外に一軒ある。
これは、源正寺の北横手を東に突き当たったところの、月江山難波寺という小さな寺だが、古いことにかけては大阪第一。
石山の本願寺も未だ当地に無かった頃よりの程だからかかる古刹を何故保存記念物にしないかと四十五年前市会で問題になったくらい。昔は俗に野中の観音さまといって
野の中にポツンと堂が建ち、なかなか趣のあった処だが、今日では平素あまり訪うものもない。全体同地は仁徳天皇の宮跡で、いま元高津の宮なる神社が建てられてあるところも、以前は同時の境内だったのだ。
当寺には聖武天皇の(月江山)と御染筆ありし勅額が保存され
一時頽廃に帰したのを市会副議長の植村次郎さん即ち南区の植村次郎兵衛さんが、明治四十二年資を投じて再建し、当時の南区長紫安新九郎が文を書いた記念碑もたてられてある。
外に大阪書家の筆法を一新せしめた、上野梅鳩の島田江公路の碑などもあり、九月の◯西園◯を賑わした、梅の由兵衛ーその実梅渋由兵衛ーの墓 あるから、考古家は鶴嘴の音せぬうち、訪うて一見するが好い。
以上の内容です。
原本の新聞は手元にありますが、読みにくいところもあります。
大正13年10月1日水曜日 大阪日日新聞の記事でした。
これ読んだら、四天王寺さん、怒りはるやろな!?
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