2020年8月28日金曜日

 


自分てなんでしょうね?


私はこうだと断言できることはありますか?

好きな自分や、嫌いな自分。

中学時代、中学生らしくしなさいと言われ、なんなん?と思った。

らしくってなんなん?

一人でいるときの自分。

コロナ騒ぎで、一人の時間が増え、そんなこと考えませんでした?

四苦八苦の中に、怨憎会苦 ってあります。

嫌な、嫌いな人と会う苦しみ。

でも、好きな人と会うと素敵な気持ちになります。

自分は孤立しては存在しません。

私以外のものに対すると、自分ができます。

反射的にそういう自分を作ります。

意識的ではなく反射的です。

花を見たとき、空を見たとき、海を見たとき、それぞれ違った自分が出てきます。

自己保全本能により、これは危ない、これは大丈夫と感じます。

無我夢中の時、やはり一つの自分に集中してます。作ってます、自分というものを。

西田幾多郎が絶対矛盾的自己同一といったように、相対的な自分と絶対的な自分が全く違いながら並列的に存在しています。

例えれば、桜の花を見た時、見た瞬間は桜だと意識してません。

0コンマ数秒してから、花だ、綺麗だ、桜だ等と、数珠つなぎ的に思いが湧いてきます。

この0コンマ数秒の間が、絶対的な本来の自分です。

なにも思わない瞬間です。

ここが無心というところではないでしょうか?なんてね?!

無意識の中には、天にも登る気持ちから、塗炭の気持ちまで、各種取り揃えて内蔵しています。それらが勝手に現れて、自分だと思うものを形成しています。

他人の目、世間体、媒体となるものは数知れず。

自分探しは、止めましょう。そんなものどこにもありません。


ほんの一瞬、何も無い私に気が付けば、楽になるだろうな。

無心になるのではなく、無心だと気が付くのです。


2020年8月25日火曜日

似た話

 

ふと気が付いた。

山川宗玄老師の話と、安永素堂老師の話がちょっと似てた。

山川老師の話は、師匠の逸外老師のお付きをしたた時、月イチの法話の内容が何時も同じ。

毎回来てる信者さんに、同じですねと聞いたら

「そうですね、同じですね。でも毎回違うんですよね」

山川老師は、ハッとしたそうです。

安永老師の話は、カトリックの高齢者介護施設の話。

介護受けてる一人に神父さんがいらして、毎日法話をされる。

いつも途中から、自分が得意の同じ話になっていき、それを聞いてた高齢者の方々が

毎日 感動し、中には泣き出す方もいるそうです。

話はいつまでも終わらない。

食事の世話をしてる係の方が

「はーい、皆さん、お食事ですよー!」と鍋を叩き知らせます。

それが、法話の終わりになるそうです。

なんか、似てるな と思いました。

2020年8月24日月曜日

地蔵盆が終わりました

 

今年の地蔵盆は、コロナの影響で23日は参詣者ありませんでした。

一人お勤めをしました。

でも、24日は沢山の方がお参りに来て下さいました。

有り難いことです。

これでお盆の行事は全て終わりました。

明日から暫く休日になります。

なんて、どっか旅行するわけもなく、寺で自粛ってやつですか?

まあ、明日になれば又用事ができます。

有り難いことです。


大阪府仏教会大会

11月12日心斎橋日航ホテルの会場で大阪府仏教会の大会がありました。 毎年、お亡くなりになった会員の追悼法要を各宗派が行います。 今年は、臨済宗妙心寺派。 大阪の支所長さんが決めた和尚たち5人でお勤めしました。 大過なく終了。 紫衣から普段の衣に着替え、中島さち子さんの講演を拝聴...