寺の墓所にある観音菩薩立像です。
年代は分かりません。
上六から持ってきたものなので、少なくても江戸時代以前のものだと思われます。
最近、檀家さんで墓じまいをされる方が増えています。
事情はそれぞれですが。
墓のある場所が不便な所だとか。
確かに買った時は、眺めのいい場所だと思ってたのに、
年を取ってくると、坂道を登るのがキツくなってくる。
駅からの送迎バスも、便数がどんどん減り、今では一日2便、なんて例もあります。
もう一つの事情は、自分が死んだ後、墓を見てくれるものがいない。
立派な息子さんがいても、そうおっしゃいます。
不安なんでしょう。
難波寺に収めれば大丈夫、なんて、私もうそんなに生きてないですよ。
まあ、寺は有るだろうけどね。
どうなるのか分からない未来を不安に思い、先取りして不安を無くす。
生きてる間にと。
無理ないかな。
でもね、生きてる内ですよ。
自分の葬式はこうしてくれとか、墓はどうだとか言っても、
もう自分は死んでるわけで、生きてる者に任せるしか無いんですよね。
遺産を残しても、喜んでる遺族の様子は見れないわけで。
死ぬと、ものの見事に丸裸。
自分の、と思ってるもの全て、無くなります。
火葬にされたらお骨だけしか残りません。
仏教的に考えると、身体は火葬にされても地球上からは消えず他の生物の餌となり
存在します。
心も、生き残った人たちの無意識の中に残ります。
確か、ユングが言ってる、集合的無意識かな。
遺伝とは有るもので、血の濃い身内には親近感を持ちます。
この人は同じものを持ってるなと感じます。
閑話休題
墓じまいした、墓石は柱石以外は廃棄されます。
真ん中に立っていた先祖代々とか彫ってある石は廃棄しません。
さすがの石材店も廃棄するのが怖いんですね。
岡山のそんな石を受け付けてる寺の空き地には20000基の墓石が並べてあるそうです。
科学宗の信者さんも、こればっかりは駄目ですね。
そうですよ、科学も、立派な宗教です。