入学時、行くのが遅く、国立市内にはアパートは見つからず国分寺になりました。
線路沿いの、ノーブル荘、一階、四畳半チッチャな台所付き、トイレ共同、家賃7,800円。4年住みました。
最初に困ったのが、言葉。
大阪弁では通うじません。
NHKを思い出しながら標準語を。
近所の八百屋さんでの買い物も、言葉に注意しながら。
大学の事務でも。
同期のラッパは5人。
広島出身のやつとは受験の時から仲良し。
鳥取のやつは天理高校出身。
兵庫のやつは関西弁なので助かった。
一人、東京のやつがいた。
なんか年取ってるなと思ったら、芸大を何年も受験し、失敗して国立に来たとか。
現在、生存してるのは私と東京のやつと二人だけ。
寂しいね。
入学時、3年生に高校の先輩がいて、可愛がって頂きました。
先輩は、皆から「チャンピョン」といわれ、ラッパも上手、その他も・・・。
2年生の時、藤田玄播さんの仕事で、大阪に三和銀行の運動会に行きました。
三和銀行のブラスバンドの手伝いでした。
直行直帰でうちには寄らず。
クリスマスシーズンになると、パーティーのバンドの仕事が多くありました。
その頃、クラリネットの原田さんにお世話になりました。
そうですね、生活向上委員会の原田さんです。
梅津さんもいました。バスクラ吹いてました。
曲は当時流行りのボサノバ。
あとは、スタンダード。
トランペットとギターと両方仕事してました。
学校では、声楽の先生に気に入られ、声楽に転科しないかと誘われました。
ピアノは4年の時の担当教授が、三木くんは弾けるからと、ドビッシーの
「月の光を」指定されました。なんでだか分かりません。
トランペットの祖元先生のことは、改めて書きます。
東京都響に行った、鈴木さん、熊谷さんにもお世話になりました。
特に、鈴木さんには可愛がってもらいました。
名古屋フィルに行った、星さんにも、下のF#からハイCまでのロングトーンを
毎日のように二人で吹いてました。
NHK交響楽団にいった、津堅さんは、卒業演奏の祖堅さんのレッスンの時
同じ時間になりました。津堅さんは、あまり大学には来ず名前しか知りませんでした。
でも、上手かった。
あの頃は、国立村と言って、みんな仲が良かった。
金管の同期は親戚みたいに付き合ってました。
木管も作曲科も声楽科も、中の良いやつはいました。
SAXの松本。作曲科の関戸。声楽の・・・名前忘れた。
ジブリの久石もいたな。
一人、国分寺に居た私は、寂しくて皆の部屋を渡り歩いていました。
作曲科の根本は「三木は寂しいから皆のところ泊まり歩いてるんだろ」と
図星を言われました。
赤坂のホワイトハウスというクラブにトラで行った時、同期のラッパの内田と鷲津さんの
バンドでした。その時のドラムが高橋さん。内田が「高橋さんは、おかずばかり叩いてるからな」。YMOの高橋さんでした。
長文失礼。
3に続く。
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