2025年1月19日日曜日

正月坐禅会


 台所の椅子の修繕をした。


今朝は、今年初めの坐禅会。

坐禅の後の、茶礼の時間。少しお話をする。

前フリの後、見る、聞くのことを話す。

私達は、見るとき選択をして限定的に見ている。

視覚全部のものを見ているわけではないし、盲点は誰でもあるが脳が調整して正常に見えてるように感じている。

聴覚も、全ての音を均等に感じていては神経が持たない。必要なもの聞きたいものを選択して限定的に聞こえている。

匂いも味も皮膚感覚も同様。

そのことを、般若心経では五薀皆空という。

当たり前に、見たり聞いたりしてると思っているが、見た瞬間には何が見えてるかは理解していない。ごく僅かな時差の後、認識している。耳も同じ。脳が処理する瞬間の間なのか、心が生じる僅かな時間なのか。

指を動かすとき、当たり前に動かすが(そんな意識もなく)、自分が動かそうとするわずか先に指は動き出している。指の動きが意識より先に起こっている。

坐禅会にお見えの檀家さんが「正月は、めでたくもありめでたくもなし」。と話された。

冥土の旅の一里塚のことだと思い、死ぬことは、自分の意識と全ての意識が合体し、集合的無意識になる。とお話する。死んでも体は全ての部位が形を変え残る。葬儀を執り行い荼毘に付し、体はお骨が残る。あとの部分は火葬の際気体となり空に昇り、雲となり、雨となって川に注ぎ、母なる海に帰っていく。元の姿に戻っていく。これを臨済では新帰元(しんきげん)という。心は意識と同じとするなら無くなりはしない。体も元の姿に分散しただけ。なにも変わらない。太古の昔から同じことを繰り返している。


なーんて話をしちゃいました。今朝は少人数でしたが、話ははずんだ。

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 武蔵小金井 北貫井町 松本宅で同窓会。 三人他界。 寝る前に、ハラリの「ネクサス」の後編を読んでる。  長い間読んでるので、小説を読みたくなり、高村薫の「我らが少女A」を読み始める。 前節に懐かしい地名が出てきて懐かしい思い出が蘇った。武蔵境、東小金井、調布インター・・・。 一...