2008年7月11日金曜日
最近思うこと
今日、檀家のUさんで、最近心の中で蠢くものを言葉にしてみました。
秋葉原での事件で、マスコミは、バーチャルと現実との区別がついていないとの論説が多いですね、でも、バーチャルと現実って、そんなに違うんでしょうか?私たちが現実と思っているものも、結構バーチャルなものが多いですよね。「確かに見たんだからしょうがない!」「そう聞いたんだもん。」。私たちの見るものは、自分で認識したものだけですよね。100見えてたら、その内一つくらいしか認識してない。見たいものだけを・・・。聞くにしても、100の音の1つだけを選り分けて認識してます。これって、バーチャルじゃないでしょうか?現実は100で、自分の認識は1なんです。これって、現実を把握してるっていえるんでしょうか?眼耳鼻舌身意(ゲンニービーゼッシンイ)と般若心経に出てきます。六根(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、認識する)とか六識といわれるこの六つのものの内、「身」の触った感触くらいが信用できるような気がするんです。友達に会い、「久しぶり!」と握手をする、ハグをする。口で「懐かしい」とか「会いたかった」とかいうより、握手一発で、心が通じ合いますよね。
もう一つ、最近引っかかってるのは、言葉です。言葉って、その言語を使ってる人は、全員同じ意味を持って解釈、使用してるんでしょうか?言葉は便利で必要だから、否定したりはしませんが、あまり信用しすぎるのも危険だと思います。しゃべればしゃべるほど、自分の言いたいこととかけ離れていく経験をしたことがありませんか?言葉は、発音した途端、自分から離れ、相手の認識の中に、相手の考え方で解釈され、整理されますよね。説明のつかないことが、ほとんどではないですか?修行中、「馬鹿になれ!」「大学で学んだことを忘れろ!」と言われたのは、概念では何も解決しないからということを、教えてくれてたんだと思います。言葉、概念を捨てたところにしか、本当のことは無いんじゃないでしょうか?概念は、きっと、因果律(こういうことが起こった原因は、これだ。)を説明するためにできている気がします。因果なんて、人間が安心するための、方便だと思います。何か悩みがあり、その原因を一つに決めたいが為に利用するのが、言葉・概念でしょう。人は、結果に対する原因を一つに決めると、とても安心できます。でも、全てのものは、関連しあってます。人は、関連して無いと生きていけません。ある実験で、人を無音でなにも見えない空間に閉じ込めると、必ず、幻影・幻聴を経験するそうです。見ること、聞くことによって、色々なものと関連してるから、何とか平静に生きているのが人間でしょう。結果に対する原因は無数にあります。全ての存在は関連して成り立っています。
理論・理屈じゃなく、自分の感じたままを素直に受け入れるほうが、「これはあれのせいだ・・・」などとグチャグチャ思い悩むより、楽に生きれるように思います。初一念といいます。最初に感じたことだけで終わりにし、理屈をこねくり回さない!ニ念、三念と始め出すと、自分を苦しめることになるんではないでしょうか?
うまく、書けてるか自信はないけど、このようなことを思う今日この頃です。
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2 件のコメント:
なるほど!
>匿名さん
ありがとうございます。
一人でも、そう言って下さる方がいらして
とても、うれしく思います。
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