今日は、法類(寺の親戚)の寒山寺の施餓鬼法要でした。
10人ほどの和尚が加担(手伝い)に行きました。
Hさんが、「最近、月参りが減りました。以前は170軒くらい参ってましたが、今は、120軒くらいです。」というと、何人かの和尚が「うちもそうです。」と話していました。難波寺も同様で、月参りが以前に比べ少なくなりました。
日本人の特性で、皆がやると私もやり、皆が止めると私も・・・。というのが原因の一つでしょう。和尚がお参りの功徳を分かりやすく説かないのも原因です。昔は、「そんなこと当たり前!」で済んでたことが、今では通らなくなっているんでしょう。
個人に対し、自分は精一杯のことをやり終えたと思える人は、果たしているんでしょうか?
いないでしょうね。
だから、追善供養を行うんです。私は、修行中、寝たきりの和尚さんの世話を3人でしていました。でも、その和尚さんが亡くなった時、世話をし尽くしたとは到底思えませんでした。今も、11月12,13日は京都・東福寺の和尚さんの法要には欠かさず参列しています。報恩謝徳といいます。恩に報い、遺徳に感謝すると言うことです。自分が死ぬまで、その御恩は忘れてはならない。
亡くなった方に、どうやって感謝の気持ち、謝罪の思いを表すのか?仏教徒(自覚してるかは別にして)なら、葬儀・法要の儀式をするくらいしか、出来ることは無いんじゃないですか?その方を偲ぶ。偲ぶという字は、ニンベンに思うと書きます。その方のことを思うことが肝心です。葬儀・法要に替わる方法を見つけ選択されるのはご自由ですが、そんなに簡単に1300年日本人が続けてきたことを、あなたの代で、簡単に変えて良いものでしょうか?遺伝子により代々伝えられてきたことを無意識は知っています。
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