京都の禅寺・妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の河野太通管長(81)が
宗派のホームページで東日本大震災の被災者を「頑張れ」と励ましている。
自らは16年前の阪神大震災で被災して「頑張れ」と声をかけられる立場だった。
その時には嫌だったという言葉をなぜ今は口にするのか?
―――
「頑張れ」と言われると、被災された人は腹立たしい気持ちになるでしょうね。
阪神淡路大震災の時の私がそうでした。
その時は、六甲山の中腹にある寺におりました。
山門が倒壊しましたが、見下ろした神戸の市街地に言葉を失いました。
20人ほどいた雲水(修行僧)と避難所で炊き出しを始めました。
そこへボランティアや報道関係者が来ては
決まったように「頑張ってください」と言って去っていくのです。
正直なところ
「あなたたちには帰る場所も頑張れる力もあるから来てくださった。
でも被災者たちは、全壊した家を自力でわずかずつ片付けている。
肉親を失っている。これ以上どう頑張ればいいのか」と内心では、半ば腹立たしい思いでした。
起き上がれない人に「立て」と言ったり、
歩けない人に「走れ」と迫ったりする無理強いにも聞こえたからです。
その私が皮肉にも「頑張れ」と言っています。
言われると、腹立たしくなったり、悲しくなったりすることは、体験から十分にわかります。
わかった上で今は「頑張って」と言うよりほかはありません。
それはいのちに向けた祈りの言葉なのです
悲しい縁に出会って亡くなった人がいる。
同じ悲しい縁に出会いながら生きている自分がいる。
どうしてか、と問われても、人間の知恵ではとうてい説明できないものです。
今回の震災に遭わなかったとしても、人はだれも老い、病になり、必ず死にます。
仏教の説く「四苦」です。
誤解しないでいただきたい。
「だから人生は空しい」と悲観論をしゃべっているのではありません。
いのちには限りがあるからこそ、
いま生かされているいのちを精いっぱい生きなくてはなりません。
それが「頑張る」ことですし、亡き人との縁をよいものにしていくことになるからです。
阪神淡路大震災では、私の大学の後輩が亡くなりました。
夫婦と子ども2人。
16歳の娘さんだけがひとり、生き残ったのです。
気丈に振る舞っていたその子が、いざ火葬にするときになると、
弟の棺に取りすがって泣き続けるのです。
離れようとはしない娘さんを棺から引きはがすようにして、
荼毘にふしたことを今でも覚えています。
その時と同じような、いやそれ以上に、
哀切きわまりない光景が今も被災地で続いているのです。
自らの命をもって、生きていく意味を私たちに知らせてくださった亡き人に、
思いを寄せるしかありません。
水や食べものを奪う合って、独り占めするのは論外ですが、
大津波や大地震に負けないもっと大きなコンクリートの防波堤を造ればいいのでしょうか。
あるいはもっと成長するために、原子力発電にこれからも頼って暮らすのでしょうか。
大地震の後には世界的な難題ばかりが残されました。
でも、復興していくには、生かされた私たちが被災地の人と、
そのいのちを「頑張る」しかありません。
それが亡くなった方々に報いることなのです。
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